優秀の定義
「君は答えを外に求めすぎて、見せかけの知識で固めているだけで、本質を自分で考えようとしていない。だから、優秀そうには見えるけど、優秀とは思えない。」
就活が本格化する大学3年生の冬、私はある社会人から言われた。
冬の東京は寒いというよりも痛い。ビルをすり抜ける風はまるで自然の苛立ちのように鋭く顔に突き刺さる。まさにその言葉は冬の東京のように痛かった。
当時の私は優秀か優秀じゃないかは知ってるか知っていないかの違いだけだと考えていた。
ただ知っている情報を手元に集め、集めた情報をそのままタイミングを見計らってカードを出す。出す順番を間違えなければ相手は納得してくれる。それこそが優秀である。と考えていた。
しかし、そこに私の見解は一つもなかった。なぜなら、この世には必ず答えが存在していて誰かが答えを知っていると信じていたからだ。
「では」は外の世界に答えを求め、「とは」は自分の中に問いを立てる。
答えを導くためには必ず過程がある。
13-5は7であることは自明だが、13-5を解く過程は私が知る限りでは3通り存在する。
普遍的な答えがそこに存在するから過程を解く。今まではただそれだけで良いと思っていた。
しかし、どうやら世界には自分にとっての答えはAだけど、他人にとっての答えはBという問いが多く存在するらしい。AとBで同意を多く得た答えが「常識」と呼ばれるものであろう。
つまり、私たちは普遍的な答えがないものに対しても答えを求め、サンプルや他人からの同意を得ることによって答えとしているのではないだろうか。
それがいわゆる「○○では」と外の世界に答えを求めることである。
ただ、他人にとっての答えが自分にとっての答えであることは多くない。
だからこそ「○○とは?」と問いを立ててみる。
自分の中で問いを立て「自分にとってそれは何なのか?」を考えてみる。
最近は洗濯について考えた。私は洗濯が嫌いだった。
一人暮らし用の安い洗濯機で洗い、狭い室内で干し乾燥させ、畳む。
洗濯という行為自体には自分が関わる時間は約10分であるにも関わらず気が進まなかった。
「なぜ洗濯が嫌いなのか?」を考えるにあたって「洗濯とは何か?」と考えてみた。
「洗濯とは自分が着た服を綺麗な状態で同じ服を着るために洗うこと」
そこでハッとした。私は自分が室内干しの臭いが「綺麗な状態」に当てはまらず、洗濯が嫌いではなく洗濯をした服が嫌いということに気が付いた。そして、コインランドリーで乾燥機に掛けるという解決策を見出した。
世の中に溢れている情報に頼るだけでなく、自分の中で「○○とは?」と問いを立ててみる。その問いが自分の中での哲学となり羅針盤となるのではないだろうか。
【参考】
「問い続ける力」(石川善樹) [Amazonリンクはコチラ]